医療法人 長島病院
〒709-0861
岡山県岡山市東区瀬戸町瀬戸40-1
 
~加賀尾秀忍師とフィリピン人の心を動かした歌~
太平洋戦争最大の激戦地であったフィリピン。退却や降伏を認められなかった日本軍将兵50万人が戦死しました。
辛くも生きのびた兵士たちも戦犯として捉えられ、死刑の宣告を受け、終戦後6年を経てなおモンテンルパ刑務所に拘留されることになりました。

しかし、戦犯の判決は、証拠もなく、現地人から指差しされただけで戦中の暴行や略奪の罪を着せられという、絶望的なものでした。

14名もの絞首刑を宣言されたセブ島の殺人事件では、この中には事件が起こった場所とは全く違う所にいたという、無罪であるべきものが6名もいるという話もありました。
また、浜田義男中将の場合は、同姓の浜田三郎さんと間違えられていることを、現地の人が証言しているにもかかわらず、他の現地人によって張本人であると言わしめ、絞首刑の判決等がありました。

昭和24年に教誨師として辞令を受け派遣されていた加賀尾秀忍師は、死刑囚の絶望の中で、教誨師として兵士たちと寝食を共にして苦悩に付き添っていました。
昭和26年、6代目のキリノ大統領が就任すると、ある日、数名の兵士に突然死刑執行が言い渡されたのです。

絞首刑が執行される事にショックを受ける加賀尾師でしたが、最後の希望を振り絞り、108名の兵士たちの中から歌の好きな者を選び、共同で「ああモンテンルパの夜は更けて」という曲を作り上げます。

加賀尾師は、最後の手段を講じてキリノ大統領に面会を求め、刑務所内で作詞作曲したモンテンルパのメロディを入れたオルゴールを大統領に贈呈しました。その悲しいメロディが死刑囚の作った曲である事を知った大統領は、心を動かされ「自分の家内と最愛の子供3人は日本軍に殺された。しかし、もうそういうことは忘れています」と述べ、一部の日本人戦犯に恩赦、釈放の恩恵を与え、日本に帰国させることを決定したのです。
加賀尾秀忍師
(写真上)
昭和24年9月1日教誨師としてフィリピンへ向かう辞令を受ける。
フィリピンに到着後は、不当に投獄された日本人達のために尽力した。
■加賀尾師の書いた掛け軸
(大きい画像はコチラ)
    ■加賀尾師の書いた色紙
       (大きい画像はコチラ)
 
2010年2月1日の産経新聞に、長島院長が代表を務める「アジア問題を考える会」のモンテンルパ慰霊祭の記事が紹介されました。


2010年2月10日に、長島院長が代表を務める「アジア問題を考える会」メンバー15名が、「モンテンルパ世界平和祈念公園」において60回慰霊祭を行うため、フィリピン・マニラに向かいます。

フィリピン・マニラにあるモンテンルパ世界平和祈念公園では、戦後行われた戦犯裁判によって、無実の罪で絞首刑となった日本人兵士達の墓地が奉られています。

フィリピンには400以上の日本人墓地が存在していると言われていますが、荒廃した墓地も多いのが現状です。

長島院長は、戦死した英霊達を慰霊することで、少しでも安らかに眠っていただきたいと考えられています。
■産経新聞記事(大きい画像はコチラ)
Copyright(c) 2009 stack. All rights reserved.
掲載の記事・写真・イラストなど、すべてのコンテンツの無断複写・転載・公衆送信等を禁じます。